改革をすればするほど
病気の父との距離は開いていきました。
最終的に父との戦いは亡くなる前日まで続きました。
父には会社が励みでした。
腎臓透析が終われば現場に来て陣頭指揮。
私が朝に指示して変える、夕方帰るとまた元通り。
聞くと「会長が」と。機械が増えていく。
「もうお金ないで」
と妹が父に伝えると
「なんでそんなに借りるねん」
と言う始末。
父には長生きしてもらいたい。
会社には来てもらいたいのですが、
会社内はめちゃくちゃ混乱し従業員も大変でした。
しかし従業員は父を尊敬し愛していたので私は何も言えず
逆にコンプレックスだけ刺激されました。
自分自身賞味期限が切れないようにと
音楽の趣味をつくりました。
すると父は母に
「茂はいつもおらん。仕事せいへん」
と言って母との関係も悪くなりました。
親戚にも呼び出され
「何をやっているかわからん」
と言われました。
しかしその中で妹は私の理解者になってくれるようになりました。
またこの理不尽な事を全世界へ言ってやろう
このブログを書き出し始めたりしました。
それが業界では新たな取り組みと注目されるようになり、
業界のマスコミやコンサル会社から
セミナー講師の依頼をされることもありました。
その時の受講者のフィードバックも
「勇気ですね」
と言われ凄く嬉しく思いました。
父との最後は会議のなかった会社が幹部社員4名で
業務時間内に会議を行っていた際、
それが気に入らない父は大きくクラクションを鳴らして
「片付けなアカンで」
と去っていきました。
父との最後の別れでした。
翌日の日曜日に母から訃報が来ました。
病院に駆けつけるとあっけなく心筋梗塞で亡くなっていました。
葬儀場の前の道は二日間、
弔問客で大渋滞ができるほど
各方面の方々から弔問に来ていただきました。
本当にわがままで好きなことをやった父ですが
人から慕われる人格者でした。
ある意味「してやったり」の人生だったかもしれません。
本当に今でも尊敬をしております。